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大使館

大使館の歴史

長崎領事館

長崎でのロシア官庁の歴史は帆船『ナジェージュダ号』が台風の猛威を切り抜け、日本沿岸に近づいた1804年に夏に始まる。ロシア外交の使節団長として、この船で日本に到着したのはレザノフ侍従だった。日本幕府は長い論議の末、日本はロシアとの交渉は行わず、ロシア船には日本沿岸から去ってもらおうという決定がなされた。この間、ロシア遠征隊は半年間もの間、延々と長崎港で回答を待たなければなれなかった。

長崎市。東山手12番館。
旧ロシア領事館。外観(正面)。

長崎滞在当初から、ロシアは船の修理(日本沿岸の嵐の際、『ナジェージュダ号』の船尾がひどく損傷した)と船員の散歩のための場所を、海岸に提供してくれるよう依頼してきた。このときの状況をクルーゼンシュテルン船長は次のように書いている。「われわれは海岸に上陸することだけでなく、自分の手漕ぎ舟で船のそばを漕ぐことすら許されなかった。六週間の交渉の末、また公使が病気になったことへのその配慮もあり、日本人はやっと最寄りの海岸を我々の散歩の場所に指定した。しかし、この場所は海岸のもっとも端にあり、全長100歩、幅40歩のみ。さらに両側から監視が境界を厳重に見張った。その場所にいろどりを添えていたのは、一本の木だけだった。なにも緑らしきもののない、はだかの石場の空間だった。」
与えられた地所(20mx50m)は町から遠く離れた険しく切り立った岸辺にあるキタ村だった。割り当てられた領域は竹の塀で取り囲まれ、見張りがいる番所が置かれた。さっそくそこへ、病人の海兵たちが運び込まれ、救命艇の修理が始まった。レザノフ公使はこの場所に満足せず、あらためて彼の身分にふさわしい場所の割り当てを依頼した。日本の奉行は、しばらくしてロシア公使には仮宿として、長崎の梅ヶ崎(ロシア側の記録では、メガサキと呼ばれていた)につくられた中華街に隣接するいくつかの小さな館が与えられた。自然学者ゴトリブ・チレジウス氏が描いた絵のおかげで、ロシア皇帝代表の公式の仮宿居がどんな様子だったか、かなり正確に知ることができる。小さな海岸が張りだしているところを石積みで固め、そこにいくつかの建物が点在していた。入り江に面した低い門が入り口で、階段が海の中に降りていた。その近くに二つの小さな家が、少し奥にロシア特使の住居となったもう少し大きな館があった。館の両側には高い竹塀が張りめぐらされ、三カ所に日本人の見張りの番所が置かれた。はじめに与えられた一本だけの木の生えていた場所は、ロシア船乗組員の散歩する場所とされた。それから約半世紀後、今度はプチャーチン提督率いるロシアの新しい外交使節団が日本へ派遣された。露日関係を結ぶ計画は、ロシア使節への説明書として1852年にロシア外務省で作成された。
「長崎でのロシア商館用の場所として、レザノフ氏が住んだ仮宿の場所が一番便利であるとシーボルト氏は考えているが、われわれの商館用にはそれよりもっと大きな場所を確保したい。オランダ商館が建っている場所は、土地代としてオランダ人はいくらの金額を日本幕府に支払っている(つまり借地としている)。しかし、できれば、われわれの土地は所有地としたい。さらに条約には、ロシア商館はロシアの領域とし、ロシア商館内での規定には日本幕府は干渉しないという文章をつけ加えると効果的と思われる。」
1855年の下田で調印された日露和親条約により、ロシア艦隊のために長崎、函館、下田でのロシア領事館開設についても約束を取り付けた。「ロシア政府は函館か下田、どちらかの港に領事館を開設する。ロシア領事は1856年から任命する。領事館の場所と住居は日本政府が決定する。ロシア人はそこで、ロシアの法律と習慣にのっとって生活する。」(条約の説明文より)

ロシア人の次の長崎来訪は1857年だった。プチャーチン提督はフリゲート艦『アスコリド号』で長崎湾に寄り、そこで日露追加条約が結ばれた。翌年、当時はウンコススキー氏の指揮下にあった『アスコリド号』の修理が必要になったので、よく知っている長崎港への寄港が決まった。町奉行との交渉の結果、ロシア人海兵のために悟真寺の一部が提供され、兵舎と船舶道具を置く倉庫などが造られた。

長崎市。東山手12番館。
旧ロシア領事館。外観。

1860年には、コルベット艦『ポサドニック号』の指揮官ビリリョフ氏が、ロシア艦隊に与えられた領域の整備を指導しはじめた。賃貸料に関する同意も日本政府と結んだ。ビリリョフ氏は、大艦隊の指揮上官であるリハチョフ氏への1860年7月12日の報告の中で、長崎奉行への訪問中、日本幕府は病院として悟真寺を提供し、住民の願いによりその寺内でロシア語学校を開くことについても合意が得られた、と記した。
1861年1月、長崎奉行は、1861年2月自らの指示によって船津村に建設された建物の借用を許可する、と公式にビリリョフ氏に通知した。このようにして徐々に、稲佐山の麓に長崎のロシア人居留地は確立していった。しばらくすると、この場所は「ロシア村」と呼ばれるようになった。1890年代に長崎を訪れたロシア人は次のように記述している。
「私の目からすると、稲佐の外観は長崎の町と大差なく、似たような1~2階建ての建物ばかりで、建築様式も同じだ。にもかかわらず、何か目を引くような特徴がある・・・よく目を凝らしてみると、そこは日本の伝統的な村というよりは、日露村とでも名付けるべきか、両国の要素が混ざった村落だった・・・
飲み屋の「クロンシュタット」や「プレヴナ」という看板に驚く。長崎へ来たロシア人は英国人などと比べると、もっとたびたび来ている常連客という感じだ。長崎の近くのウラジオストク港にやっと人が住みだした頃、遠くに町の喧騒が聞こえるこの稲佐では、われわれの元気な海兵たちは、まるで水を得た魚のようだ。
他の外国人がみな(中略)長崎にやって来て、街中に住居を構えても、ロシア人の海兵たちは町を飛び出し、長崎湾の対岸にある稲佐に仮宿をかまえた。
騒がしく活気ある大きな町よりも、控えめな農村を優先したことは、ロシア人気質の特徴なのだろう。大自然や広々とした世界、美しい絵のような風景を好む傾向などが見られた。
稲佐はこういう意味からすると、もっとも適した場所だ。入り江を取り囲む、常緑に覆われた高い山脈のふもとにある。その周りには松と竹の原生林があり、峡谷の谷間には細い銀の帯のような山の清水が流れている。つい最近、ロシア人の医者たちが働くロシア海軍病院さえ建てられた。」
1866年からツィヴィリコフ氏が長崎の名誉領事(非公式領事)として働き、1868年からはフィッリペウス氏が非常勤領事の任についた。ロシア外交官たちは低い丘の上にある行き届いた平屋を借りた。その家は東山手十二番館と呼ばれた。いま、この家は長崎市によって修復され、建築文化財になっている。
1872年10月に『スヴェトラーナ号』でアレクセイ・アレクサンドロヴィチ大公が長崎を訪れたが、その前年の1871年に、長崎のロシア領事館が公式認定された。
1876年、中国ですでに領事として働いていた経験豊かな外交官オラロスキー氏が長崎の最初の公式ロシア領事になった(同氏は1881年まで領事として勤務した)。
ロシア外務省は、長崎で領事館として使用する家を一軒購入することを彼に一任した。丁度良い機会があり、オラロスキー氏はアメリカ領事から、領事館と事務部のほかに、病院や通訳と家政婦らの宿泊所までついた複合施設を購入した。建物の状態は良好で、入り江の素晴らしい眺めが見渡せる便利な場所に建っていた。
次に長崎のロシア公式代表になったのはリュミン氏だったが、1883年にはコスティレフ氏に代わった。コスティレフ氏は1900年6月16日に自ら辞表を出して退職するまでこの任に就いていた。コスティレフ氏は貴重な歴史学書「日本歴史概説」(1883年)を遺している。

ニコライ皇太子の日本訪問準備のため、1890年代初め、領事館は抜本的改装を行った。1892年5月に新しく生まれ変わった領事館の最初の訪問客は、ロシア皇位継承者ニコライ・アレクサンドロヴィチだった。

長崎市。東山手12番館。
旧ロシア領事館。建物内部。

コスティレフ氏の後、領事に任命されたのは、1904年の露日戦争勃発直後まで日本にいたガガーリン氏だった。ガガーリン領事の時代、領事館の業務は大幅に増加した。長崎港にたびたび寄港するロシア船舶は、大量の書類とさまざまな郵便物を運んできた。極めてハイレベルの使節団が間断なくやってきた。そのころ、新しい領事館建設についてガガーリン氏が提出していた申請書が承認された。古い建物があった場所には、さまざまな用途に使われる両翼と中二階のある領事の邸宅、12の部屋がある二階建ての領事館、通訳の住居がついた日本家屋という3つの新しい建物が建てられた。ロシア外務省管理下へ譲渡される以前は海軍管轄の小病院と医者の家があった土地で、敷地の拡張も行われた。この総合施設の建設は1901年から始まり、終了したのは露日戦争勃発の直前だった。長崎の領事館の業務も、その増加に歯止めがかかった。
1900年代から、領事館敷地内に正教寺院を建設するために募金が集められ、1909年には悟真寺のそばにある外国人墓地(ロシア海兵の墓碑がある)の敷地内に、ニコライ主教がはらい浄めた小さな礼拝堂が建てられた。
長崎のロシア領事館は1925年に閉鎖された。建物の中は空となったが、1942年、この建物はソビエト連邦の財産であると日本政府は認めた。
1945年の原爆投下により、ロシア領事館は破壊された。目撃者は次のように回想している。「(前略)まわりはすべて崩壊した。帝政ロシア時代につくられた旧ロシア領事館の建物をさがそうとする試みは徒労に終わった。旧外国人地区すべてとウリカミ川両岸の建物は、爆風と火事の火の粉で廃墟となった。」
以前、ロシア領事館が建っていた場所は、現在は住宅地になっている。

参考文献:
「ロシアと日本:信頼への歴史の道のり」
モスクワ:「ヤポーニヤ・セヴォードニャ」出版社。2008年。

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