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04.17.2013

2014年 - 第一次世界大戦勃発から100周年

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ロシア軍野戦病院。戦闘で負傷した兵士らを野戦病院へ搬送する様子。第一次世界大戦。
ロシア 1915年9月2日

 第一次世界大戦(1914-1918)は、世界史上最大かつ激変をもたらした出来事の一つである。この未だかつてない規模の大動乱は、何百万もの人命を奪い、いくつかの大帝国を滅亡させ、新たな民族国家を形成し、国際関係に抜本的な変化をもたらした。この大動乱は、第二次世界大戦も含め、その後の世界の行方を運命づけた。アメリカの政治学者ジョージ・ケナンが指摘したように、「20世紀に世界で起きたことはすべて第一次世界大戦に起因する」。

 主要な参戦国の一国であるロシアにとって、この大戦は最も悲惨な結末をもたらした。国は革命と内乱のカオスに陥った。自国の敗戦を求めたボリシェヴィキが政権に就くと、ロシアは戦争に負けたドイツに降伏するという奇妙な状況になった。

 その後、革命前のロシアで第二次祖国戦争と名付けられた戦争が起きたが、この戦争について、V.V.プーチン・ロシア連邦大統領は、「不当に忘れ去られ、政治やイデオロギーなど様々な思惑によって、事実上、私たちの歴史の記憶から、そして歴史そのものから消された」と評価。多数のロシア戦士らの雄姿が不当な忘却のかなたに追いやられたのである。約200万人の兵士が戦場で命を落とし、約400万人の兵士が負傷した。

 国内には、第一次世界大戦の英雄や犠牲者を偲ぶにふさわしい全国規模の記念碑は一つも建てられていない。

 現在、ロシアでは、第一次世界大戦に参加し、祖国のために命を捧げた方々の勇気と献身的行動を称え、政府の積極的な支援のもと、その歴史を復活させ、永遠にとどめようと社会運動が展開されている。第一次世界大戦勃発100周年の準備組織委員会が設置され、モスクワのポクロンナヤ丘に英雄の記念碑を建立することで基本的な決定がなされた。この流れに、ロシアの歴史・戦争史関連組織やその他の学術社会団体が加わった。また、ロシアは、第一次世界大戦勃発100周年の国際的な記念行事にも参加する予定である。

 客観的な歴史的事実を見れば、ロシアはこの大戦を望んでいなかったこと、逆に阻止しようと努力していたことがわかる。1912年に至るまで、我が国の外交は、ドイツとの良好な関係を維持することに希望を捨てていなかった。そして、戦争開始の1年半から2年半前になってやっと、ベルリンとウィーンの抑制のための有効手段として、三国協商の強化に力が入れられるようになった。転換期は1913年末に訪れた。今後、ドイツ・オーストリア同盟に譲歩することは紛争回避に役立たないのみならず、より戦略的な行為を促進し、三国協商におけるロシアの立場を弱めるものであると、ペテルブルグは最終的な判断を下した。

 それでも、サラエヴォ爆撃が引き金となった危機の中、ロシアは、1914年7月末に至るまで、ウィーンとベオグラード間の紛争の外交的調整をすべく尽力した。しかしながら、オーストリアの最後通牒を全面的に受け入れることは、ペテルブルグにとって容認しがたいことであった。というのも、これは、事実上、セルビアから主権を奪うことになり、ロシア国内の世論の反発を招くことになるからであった。加えて、ドイツはすでに方針を定め、オーストリア・ハンガリーの戦略行為を積極的に奨励していた。こうして、ヨーロッパの危機は、もはや避けて通れない状況となった。ドイツは、8月1日ロシアに、8月3日フランスに宣戦布告。8月4日、イギリスが参戦。

 ロシアは軍事的には戦争への準備が十分に整っていなかった。ロシア軍は、1917年までの再編計画をまだ完遂していなかった。だが、戦争が始まるや早々にきわめて勇敢な献身的な戦いぶりを発揮した。

 1914年8月、フランスはパリの没落という現実的な脅威に直面し、ロシアに対し、東プロイセンの攻撃を一刻も早く開始するよう依頼した。ロシアの司令部は、計画されていた作戦の実施に十分な準備が整っていなかったが、同盟国としての忠誠心から、フランスの応援に駆け付けた。しかし、その代価は大きかった。A.V.サムソノフ将軍が率いる軍が壊滅。しかしながら、ドイツ軍は、西からロシアの前線に2軍団を派遣せざるを得ず、パリは救われた。フォッシュ元帥の証言がそれを如実に物語っている。「フランスが地上から抹消されず、パリが最初の数か月で占領されなかったのは、まさにロシア人らの犠牲的な攻撃のおかげに他ならない」。

 こうして、ロシアの行動は、三国協商の勝利に多大なる貢献をなした。なぜなら、もしもドイツ・オーストリア同盟が初期の段階に西側の前線で速やかに勝利を収めていたら、軍配はドイツ・オーストリア同盟に上がっていたからである。その後、長引く陣地戦となると、ドイツ・オーストリア同盟は2つの前線で戦闘せざるを得ず、かつ三国協商があきらかに戦略的に優位に立ち、加えてアメリカが参戦したことにより、もはや敗北への道を転がっていった。

 フランスからの依頼を受け、1916年、西側の戦線に、4旅団からなるロシアの派遣軍(約4万人の兵士と将校)が送られ、最も困難な地区の戦闘に参加し、見事な雄姿を発揮した。ロシア軍は全体として、その責務を立派に遂行した。ガリツィアとポーランドでの大規模な戦闘でことごとく勝利を収め、「ブルシーロフ攻勢」を成功させた。

 第一次世界大戦で積極的な愛国的役割を果たしたのが、ロシアの外交であった。軍事行為の開始以来、同盟関係の強化、三国協商の新たな同盟国の模索、三国同盟の大国の国際的な孤立、戦後の世界秩序の構築に外交の力がそそがれた。ロシア外交にとって、1915年に未来のコンスタンティノープルと黒海海峡に関する協定が結ばれることによって、いわゆる「歴史的遺訓」が果たされたわけだが、結局協定は実行には移されなかった。

 戦時下で、ロシア外交当局の抜本的な近代化が実施され、その機能が拡大された。新たな機能には、戦争捕虜や負傷者への積極的な援助や、敵国領土に残されたロシア国民の支援など、幅広い人道活動も含まれた。ロシアの外交官らは、非常事態の中で個人的にも勇敢な行動をとった。たとえば、在セルビア大使館では、オーストリア軍のベオグラード攻撃の際に多くの人々が軍に動員され、戦場に散っていった。

 国際社会は、第一次世界大戦の教訓を見直すべきである。それは、歴史の清算をし、勝者と敗者に建て分けるためではない。大事なことは、この悲劇の歴史的記憶を現代の安全問題の解決策の積極的な模索に向けることである。グローバルな乱気流と国家間や国民間の相互依存の高まりの中、今後起こりうる大混乱から身を守る唯一確かな道は、欧州大西洋地域やユーラシア地域、アジア太平洋地域に対する平等かつ不可分の普遍的安全主義を貫くことであると認識すべきである。


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